シャネルNO.5が日本人に受け入れられにくい理由
こんにちは。本日は香水界の「モンスター」不朽の名作シャネルのNo.5について語っていこうと思います。
No.5といえば、1921年に発売されて以降、世界で最も売れた香水として有名です。
フランス政府によると約30秒に一個世界のどこかで売れているとのことで、
年間の売上高は1億ドルにもなると言われています。
正式には公表されてはいませんが、毎年100万個売れていることになり、
発売から100年たった今も世界中で売れています。
しかし、日本ではこの香りを巡って賛否両論あるのも事実です。
実際、おばさん臭い、主張が強すぎるといった意見もあります。
私が、最初に嗅いだのは調香の勉強する際に、主要な香水の評価をする課程ででした。
確かに、いい香りですが、大胆なローズ、ジャスミンを始め様々な花々がブーケの様に香る様や、
ワキシーなアルデヒドが刺激的に香る様子は、主張の弱い日本人には似合わないかもしれないと思ったことはありました。
そこで、今回はシャネルNo.5が日本人に受け入れられにくい理由を考えてみました。
結論、No.5の生みの親であるココシャネルは香水を自己の存在理由として考えており、
ココシャネルという強烈な個性があまり日本人に馴染みにくくその精神が調香に表れているからだと私は考えています。
ココシャネルは、小作農の家庭に生まれ、早くに両親を失いました。
12歳の時に母親が亡くなり、残った父親からは馬車に乗せられて、
オバジーヌという孤児院に送り込まれました。シャネルは親の愛情を受けずに孤独にここで成長したのです。
20代は、ショーガールとしてきわどい歌を歌いながら生計を立てており、決して華やかな人生ではありませんでした。
シャネルが初めて取り組んだビジネスは帽子屋でした。
1909年愛人のエティエンヌの庇護の下、彼の所有している物件を援助してもらい始めることが出来ました。
その後も、エティエンヌという愛人がいながら紹介してもらったアーサーカペルという男性と恋をして財政的な援助をしてもらいながらビジネスを成長させました。
シャネルはビジネスを成長させる中でいつも、土地を持たない小作農生まれであること、水商売でかなりきわどいことを行なっていたこと、
12歳の時に親を亡くし孤児院で育ったこと、裕福な男性の二番目の愛人だったことを背負って生きていくことになります。
そんな暗い人生の中、唯一の光、心から結婚しても良いと思える男がアーサーカペルでした。
しかし、シャネルが36歳の時、カペルが自動車事故で無くなるのです。
絶望に陥ったシャネルは2人とともに過ごしたベッドで何週間も過ごし悲しみにくれました。
そんな心の傷を埋め合わす様に始めたのが香水事業でした。
「No.5」という香水名もカペルとの思い出でが由来と言われています。
五は神智学にとって重要な数字で カペルと一緒に宗教を研究していた時のラッキーナンバーでした。
シャネルは占い師からも五は2人の運命の数字であると告げられていたと言います。
カペルとの思い出、未練がNo.5には込められているのです。
1920年シャネルは調香師のエルネストボーにNo.5を作り上げて欲しいと依頼をしました。
シャネルは「誰にもまねできないような香りを作りなさい」との指示を出し、
高級なグラース産のジャスミン、ローズをふんだんに使う高額な香水を作り上げました。
その香気は、官能的な女性の匂いがするものです。
香水は1921年に発売後、おしゃれの最先端を行く上流階級を中心に口コミで広がっていきました。
まさに絵にかいたような成功です。
しかし、シャネルはNo.5発売からたったの四年でNO5の権利の殆どを他社(パルファンシャネル社)に譲渡してしまいます。
(実際にはシャネルが10%の株を保有)
売却することで莫大な経済的な利益が有ったこと、No.5を世界に広げるうえで、大規模な生産設備と販売を管理する部門が必要だったからです。
売却の結果は大成功で、No.5は爆発的に売上を伸ばし、世界的な大ヒット商品となりました。
しかし、No.5はシャネルにとってただの商材ではなく自己の存在理由でもあったので、No.5が自分の手の届かないとことまでいくことが許せませんでした。
パルファンシャネル社との間での契約、権利を売却したことに対して強く後悔しました。
1934年にパルファンシャネル社はクレンジングクリームを商品化しますがそれに対して、
「クレンジングクリームは化粧品じゃない為契約違反だ」とシャネルが主張し両者の戦いは幕を開けました。
シャネルはパルファンシャネル社の実権を取り、No.5の販売権を取り戻すために奮闘しました。
1940年10月戦時中のパルファンシャネル社は株の70%をフリックスアミヨ氏に売却しました。
第三帝国の法律ではユダヤ人の資産は押収されることになっており、
当時の経営陣のユダヤ人ヴェルタイマー兄弟は会社を守る上での売却でした。
シャネルはこの動乱に乗じて会社を取り戻そうとしますが結局ヴェルタイマー兄弟の方が一枚上手で、
政府からアーリア人の会社と認定され、シャネルは支配権を取ることが出来ませんでした。
ここまでシャネルを突き動かすのもNo.5という商品が自分そのものだという認識があったからだと思います。
シャネルはNo.5が庶民にも手が届くように価格が下がったことも憤慨しました。
自分自身が低く売りさばかれていると感じたに違いありません。
皮肉にもNo.5は売れ続けシャネルの口座には多額の金が入って来ました。
大金持ちになっても結局彼女は愛人でした。
常に「囲われる女性」でした。
男性に支えられなければ生きていけないか弱い女性です。
しかし、その葛藤が彼女のインスピレーションに力を与えたのだと思います。
1959年No.5はニューヨーク近代美術館の特別博覧会に出品されました。
注目されたのは、ボトルではなくパッケージです。
白いパッケージに黒の縁取りは死と喪服を連想させます。
カペルの死を弔うように…
以上、No.5はシャネルの生い立ちが反映されている作品だとご理解いただけると思います。
恵まれない出生から、ショーガール、愛人そして最愛の人の死、
まさに映画のような展開です。
しかし、そのようなエピソードは日本人にはあまり馴染まないかもしれません、
そもそも陰鬱としたシャネルの性格は日本女性にはなじみがありません。
女性は明るく!「おかあさん」の語源は「たいようさん」です。
明るく家庭を照らしてくれるのが女性という価値観が日本人女性の底にあるのではないでしょうか。
シャネルは香水は自己の存在理由と位置付けましたが、確かに一理あると思います。
香水を三度ふりかけ通り一面中に自己アピールをすることも良いと思います。
しかし、日本人なら相手を想定して香水を使用すると思います。
自分ではなく常に相手目線です。
相手の好みを考えて、適量香水を纏う。
そんな健気な姿勢があったほうが日本人の価値観に合っていると思います。
朧の紙袋はシャネルと対照的かもしれません。
暗い夜というよりは明るい月が光照らす風情のある景色を採用しました。
また、香りの面でも自己主張というよりは、雰囲気に溶け込むような、その場を演出して居心地の良い空間を作り出せるような設計です。
つまり常に相手目線に作られているのです。
そんな、朧の香水は下記で購入できます。
調香師 三代 孟史